古くから海上交通の要所として知られる紀伊大島の樫野埼
トルコと友好の歴史、日本最古の石作り灯台など紹介
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紀伊大島 樫野地区 
古くから海上交通の要所として知られる紀伊大島樫野埼は、日本初の「黒船来航と日米修交の地」として知られ、江戸時代になり開国に伴い各国からの要請で建設された日本最古の石造り灯台やトルコ軍艦遭難の悲しみの歴史と厚い友情と、幕末から明治にかけて歴史の荒波に翻弄された感があります。
また、紀伊大島の最東端部にある樫野埼は、日本最古の石造り灯台やトルコ記念館、景勝地「海金剛」に日米修好記念館など大島の観光スポットが集中しています。
樫野埼灯台
鎖国が解かれた日本に、各国からの要請で建設された日本最古の石造り灯台の内の一つが樫野埼に今も灯をともす「樫野埼灯台」。英国技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが手掛け、1869年4月に着工し
、翌年6月10日に点灯されました。

灯台の付近に自生する水仙は、当時の技術者達が持ち込んだ物とされており、冬から春にかけての水仙の開花時期には、辺り一面水仙の香りに包まれます。

敷地内には、トルコの初代大統領で「国父」と呼ばれる「ムスタファ・ケマル・アタトゥルク」の銅像が建っています。エルトゥールル号事件から丁度120周年にあたる、2010年6月に建立されました。
樫野埼灯台建設に使われた石材
鎖国が解かれた日本に、各国からの要請で建設された日本最古の石造り灯台の内の一つが樫野埼に今も灯をともす「樫野埼灯台」の建設が明治2年に始められましたが、その際の石材が現古座川町の宇津木から切り出された物という文章が残っています。
『明治2年(1869)3月15日偉人樫野埼に灯明台屋敷拵えにかかる。その石を宇津木より取り寄せる。大石一個、目方千貫より百貫まであり、石屋百五十人の賃金は段々にて…中略…家大工の賃は一人前 …以下省略』
この年から樫野崎の灯台と旧官舎の建設に取りかかったようで、石材は古座川町の宇津木から切り出し、古座周辺からは大工方も雇っていたようで、石材の重さは大きい物で約4トン~400kgまであったようです。
樫野埼灯台旧官舎
樫野埼灯台の旧官舎。樫野埼灯台と同じく、リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により、明治3年(1870年)に建設されました。当時はブラントン本人が住居としていました。昔から島民の間で「イギリス人の
家」として親しまれています。

日本最古の石造灯台官舎として平成15年に国指定登録有形文化財に登録されました。

2011年10月、大規模な改修が行われ、過去の資料に基づいて当時の雰囲気を再現。外壁には漆喰塗り、建具や窓枠には建築当時と同じく「木目塗り」を再現しています。
日米修好記念館
米国のペルリ提督が黒船で浦賀沖に来航した日をさかのぼること60年余り前、寛政3年3月24日(旧暦)夕方、突如現れた2隻の蛮船に、樫野浦の住民は驚き、慌てふためいた。

潮だまりに投錨した船からは、小型の船が降ろされ、磯周りを廻りながら、水を補給したり鉄砲で鳶を撃ち落とした。(日本側資料)


1791年(寛政3年)レイディ・ワシントン号とグレイス号の2隻のアメリカ商船が大島に上陸しました。中国にラッコなどの毛皮を交易しようと出かけたが不成立になり、帰還途中に立ち寄った日本であったが、毛皮の使用法を知らなかった住民とは、交易は成立しませんでした。
日本初の黒船来航は、浦賀ではなく樫野埼であり、以来、日本と米国との関係が続くこととなります。
樫野とトルコ
明治23年9月16日、エルトゥールル号は熊野灘に差しかかった。その日は朝から曇りがちで風が激しく、海もひどく荒れ模様であった。やがて、山のような怒濤に揉まれ揉まれた木造艦エルトゥールル号は、同日午後すでに進退の自由を失い、風濤に翻弄されてぐんぐん樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」へと押されていった。

この船甲羅は数百年来、海の難所として知られ、艦長以下乗組員全員は死力を尽くして荒れ狂う魔人と闘ったが、かかる絶望的な状況下ではなす術もなく、同夜9時頃、船甲羅の岩礁に乗り上げ、同10時半頃には沈没してしまった。

地元住民の献身的な救助活動が行われ、オスマン提督以下540名が遭難したが、69名が無事救助された。住民達により亡くなった乗組員たちのお墓が建てられた。かくして、トルコと旧大嶋村樫野(串本町)との友情と友好関係が現在まで続くこととなる。


トルコとの友好関係
後年になって、現在の慰霊碑が建立され、トルコと串本町の友好の印として記念館が近年建設されました。長年に渡り、地元の老人や旧樫野小学校の生徒達の手で慰霊碑は通年、清掃されており、島内の小学校3校が統合された今も、大島小学校の生徒達や地元の人達により、いつも綺麗に手入れされています。
また、節目の年には、トルコ本国からトルコ海軍の艦船が訪れ、駐日トルコ大使などを招いて慰霊祭が催されます。


磯釣り
串本町の沖合に浮かぶ大島も、くしもと大橋の開通で離島ではなくなりました。その大島の東側半分が樫野の磯で、磯の数も圧倒的に多く、ゆったりと釣りを楽しめます。

冬場の北西の季節風にが強く、寒グレ(メジナ)のシーズンにはグレファンでにぎわいます。
また、地磯にもA級の磯が多くあり、架橋に伴い釣り客が多く訪れています。

夏のイサキ、秋のイガミ、イシダイ、冬のグレ釣りなど、通年にぎわい大きな釣り大会も開催され、近年、エギングやシーバス、青物を狙ったルアーフィッシングなどの新しい釣りも見かけられます。
雷公神社秋季例祭と火祭り
紀伊続風土記では「鳴神明神」とあります。祭神は本殿に「五十猛命(いそたけるのみこと)」を、合祀されている八幡神社には「誉田別命(ほんだわけのみこと)」を、蛭子神社には「事代主命(ことしろぬしのみこと)」を祀り、「大島村史」には、「当社は古くより須江、樫野両浦の産土神(うぶすながみ)であり、明治三十年頃までは大島より毎年9月9日の例祭に、酒と魚を献納する習慣があったと書かれています。

祭り前夜8日の夜半、手に手に苦竹で作った松明を手に、雷公神社に二十人ほどの若者が「詣るぞ~」と叫びながら走ります。雷公神社に詣った若者達は、今度は「詣ったぞ~」と叫びながら「大竜寺」まで帰ってきます。この時、お寺では故事に習い「磯魚」と「菜」を供え、これを「走り詣り」(地元ではなまって「走りまい」と言います。)
樫野地区の獅子舞
樫野地区の獅子舞も、須江と同じ200年程前に「古座獅子」を古座から習い、奉納を始めたとあります。
樫野の獅子も「メン獅子」で、髪の毛は和紙を使いカールを付けます。天狗は面を被り、近年は小学生高学年が務めます。

特筆すべきは、この天狗で、起きあがった天狗と対峙する天狗の駆け引きは、巧妙で魅了されます。
樫野地区も、高齢化、少子化の波で後継者は決して多いとは言えませんが、少ない中でも上手く継承されています。演目は、幣之舞、神宮之舞、神明賛、花掛かり、寝獅子、乱獅子、剣など、近郷の獅子舞と変わりません。
海金剛(うみこんごう)
吉野熊野国立公園に含まれ「21世紀に残したい日本の自然百選」に選ばれています。
鷹ノ巣岬の断崖下の海面からピラミッド型の尖った奇岩が荒々しく切り立ちます。

島では「髪とぎ岩」と呼ばれる伝説の岩です。
その昔、庄屋の息子との恋に破れた少女が海に身を投げてしまいました。その後、少女は魂だけとなりこの岩で美しい髪をといでは愛しい人を待ち続けた、というものです。
周辺はウバメカジをはじめとした神秘的な森。樫野埼灯台や黒潮流れる太平洋をぐるっと一望できます。
天狗岩(てんぐいわ)
知られざる絶景ポイントです。近年、地元有志により整備されました。

絶壁に突き出た「天狗岩」と呼ばれる巨大な火成岩の上に立つと、眼下に濃密な森林が広がります。

また海を隔てて熊野や那智連山を遠望することができます。

「天狗岩」のいわれは昔ここに住んでいた悪い天狗をお経を納める「大乗妙典塔」を造り封じ込めたという話が伝わっています。
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 但し、釣公園は1月1日が、レストランは12月31日~1月2日が休館日
・和歌山県東牟婁郡串本町樫野1021-13 ・営業時間(釣公園) 8時~16時(最終受付 14時)
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